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ハクはいったい誰なのか? ジブリで学ぶ心理臨床学③−「千と千尋の神隠し」

千尋は無気力で拒食症?!

 さて、「千と千尋の神隠し」の続きです。前回は、千尋の不機嫌さと無気力は、親の身勝手への怒りや不本意な引越しへの絶望と読み解きました。千尋は、言わば生きることの希望を見失い、無気力になっています。「となりのトトロ」の冒頭も引越しのシーンからはじまるのですが、さつきとメイは新しい土地や家に希望と好奇心をもって楽しんでいますが、千尋は、新しい街にも学校にもまったく興味がないようです。また、サツキ、メイに比べると千尋の手足が細すぎることも気になります。千尋は線が細くやせっぽちに描かれていて、実際に父母が食べている食事を断るシーンもありますが、食も細そうです。食べることを抑制し、拒否する「拒食」という症状がありますが、その傾向があると言っていいでしょう。ジブリ作品には、「ナウシカ」や「もののけ姫」などエネルギッシュな女性の主人公が多いですが、千尋はジブリ史上もっとも無気力で、やせっぽちな主人公なのです。
 その観点で見ると、前回述べた「ジブリ史上最も塩対応の親」と、「ジブリ史上最も無気力な主人公」が千と千尋の神隠しでは描かれていると言えましょう。

異界に迷い込むこと

 千尋たちが迷い込んだ湯屋のある世界は、川に隔てられた世界であり、黄泉の国のような不思議な場所です。心理臨床学の観点からは、これは夢の世界であり、千尋のこころの中の世界とみることができます。夢では願望が実現されますから、千尋のこころに潜んでいた怒りによって、お父さんとお母さんは豚になってしまい、千尋はひとりぼっちになってしまいます。「夢」には“夜見る夢”という意味と“願望としての夢”という2つの意味がありますが、千尋が現実世界において希望を失っていたからこそ、この湯屋の世界に迷い込んでしまったのは必然だったとも言えましょう。現実に戻る道は閉ざされ、千尋はこの異界で生き抜かなければいけなくなります。これが「神隠し」ということですね。現実の世界に戻れるか?そして戻りたいという意志をもてるかどうかが神隠しから戻ってくるために必要なことなのです。
 実は、このように異界に迷い込む物語は古今東西たくさんあるのです。「ナルニア国物語」は家の古いクローゼットの向こう側に異界が広がっています。「ハリーポッター」もそうです。M.エンデの「はてしない物語」も異界に行って帰ってくる物語です。日本でも、たとえば村上春樹の小説にも異界である「向こう側」のテーマが繰り返し出てきます。 
 いつのまにか違う世界に足を踏み入れ、不思議な体験をして帰ってくるという物語を瀬田(1980)は「行って帰りし物語」と呼びました。子どもの頃、まだ空想や夢の世界と現実の垣根が低い頃、私たちは空想の世界、たとえばホビットやオークや魔女のいる世界、あるいはトトロや妖怪がいる世界が身近です。毎晩、夢の中、あるいは本の中で、怪獣や魔女と戦ったり、ユニコーンや動物と話したり、と大冒険をしていたわけです。
 夢の世界では、その人のこころの部分がキャラクターとなって登場します。湯婆婆は「働く」こと、すなわち規範や義務を示し、銭婆婆は保護的な母親、坊は赤ん坊の甘えたい部分、カオナシは貪欲な欲望と寂しさ、それぞれが千尋のこころの部分のメタファーであると考えられます。千尋の異界での冒険は、彼女がこれらのキャラクターで表される社会的規範や、自分の甘えたい部分、そして自分の貪欲さや寂しさとどのように相対して、折り合っていくかの冒険なのです。
 ここで千尋は湯婆婆に名前を一部奪われ、「千」になります。「尋」には「尋ねる、探し求める」という意味がありますから、千尋はたくさんの問いや探し求めるものを持っているという含意があるのでしょう。その「尋」を湯婆婆が奪っていることも注目すべき点です。

拒食からの回復〜おにぎりの美味しさ

 前半のハイライトは、湯婆婆との対決を生き残って、湯屋で仕事を得た千=千尋がハクにもらったおにぎりを食べるシーンです。涙を流しておにぎりを頬張る千尋、みなさんの印象にも残っているのではないでしょうか?
 このシーンが印象的なのは、無気力だった千尋が自ら仕事をする喜びを知ること、そして拒食気味だった千尋がおにぎりの美味しさを感じる、その実感が私たちに伝わってくるからです。この時、千尋が陥っていた心理的な問題である無気力と拒食の問題が一歩前進します。千尋は働くことの充実を知り、お腹が減るという感覚を知り、食事のおいしさと大切さを実感しているのです。これらは本来当たり前のことなのですが、私たちも時に見失いがちな生きることの基本です。物語の前半は、千尋が「働く→疲れる→食事をする」という当たり前の実感を取り戻していく過程なのです。
 さて、働くこと、食べることを取り戻した千尋の次のテーマはなんでしょうか?

ハクは何者か?

 次の課題であり、現実世界に戻るための鍵はハクの存在と関わっています。ハクは千尋にとっていったいどんな存在なのでしょうか?ハクは自分の名前を忘れていて、龍でもあり、人間でもある、という不思議な存在です。おにぎりをくれるなど、たしかに千尋の味方なのですが、湯婆婆の前では必ずしもそうではない、という複雑さを持っています。また、ハクは「小さい頃からそなたを知っている」と言っています。しかしなぜ知っているか本人もわかっていないようです。そして千尋と同じく、ハクも湯婆婆に名前を奪われ、奴隷になっています。ハクも自分の本当の名前や役割、記憶をなくして異界をさまよっていたのです。
 ハクは、川の神様ということになっていますが、千尋がまだ記憶がない時、川に溺れかけた千尋を救った存在であり、おそらく千尋の兄だったのではないでしょうか?宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」でカムパネルラが川で溺れた友人を救って自らは死んでしまうという話のオマージュと言えましょう。これはYouTubeで岡田斗司夫さんも同じ説を提示していますが、心理臨床の観点から考察して私もそう思います。千尋が記憶がない時に起こった事件なのですが、もしかするとそれ自体がメタファーであるかもしれません。少なくとも千尋には兄がいて、千尋が記憶のない時になんらかの理由で死んでしまったという家族の秘密があった、と考えることができます。それゆえにハクは「小さい頃からそなたを知って」いて、しかし、そのことをハク自身も忘れているのです。

千尋の恩返しと生きている意味

 千尋は自らが引き入れてしまったカオナシの大暴れ、つまり欲望からの誘惑をキッパリと断ります。そして、ハクは銭婆婆から印鑑を盗んだことによって死に瀕しています。千尋は、窮地を救ってもらったハクへの思いから「ハクを助けたい」という自分の意志をはっきりと自覚します。この時、無気力でやせっぽちだった千尋の頬は引き締まり、自分の意志と考えをもった頼もしい存在に成長しています。そして、帰りの電車がない鉄道に乗り、ハクを助けだします。その救出の帰り道にハクは自分の名前を思い出し、千尋を救った時の川のシーンが蘇ります。裸の赤ん坊が千尋であり、それを救った手はハクの手だったと考えられます。それが、千尋が今生きていることの理由であり原点だったのです。夢の中で、千尋は兄に再会し、兄を成仏させたと言えましょう。それは千尋が抱えていた無意識的な自分が生きていることの罪悪感を見つめ、乗り越える作業、トラウマ・ワークだったのです。そこには「愛すること、愛されていること」の再発見という重要な意味があります。それまでは千尋は自分が「なぜか愛されていない」という感覚を持っていましたが、その背景には兄の犠牲の上で生きているという罪悪感を抱えていた、と私は考えます。
 私たちは、さまざまな「誰か」のおかげで生きているのですが、それに気付かないまま生きているとも言えましょう。わたしたちはその「愛情」を時に見失ってしまうのです。

荻野家が抱えるトラウマ

 子どもは、意識的も無意識的にも家族や両親の問題を引き受けています。こうして、兄の死という事件があったことを考えると、父親もただ俗物なのではなく、荻野家の悲しい出来事を吹き飛ばすために明るく振る舞っていたのでしょう。そして母の対応もただ冷たいのではなく、息子を失った悲しみから、妹である千尋を恨むような無意識の気持ちから、千尋を情緒的に遠ざけ、あしらってしまっていたのでしょう。それが「ジブリ史上の塩対応」の理由だったのです。しかし、それ故に千尋は愛されているという実感を見失っていたと言えましょう。
 このように荻野家は、避けることができなかった痛ましい事件、心理臨床学で言えばトラウマをそれぞれが背負っていたのです。その辛さゆえ、兄の死を両親は千尋に秘密にしていたと考えられます。心理臨床学では、隠されていたり、無意識に影響を与えている「家族の物語」「家族の神話」family mithと呼びます。それは心理療法の過程で、解明すべき重要な鍵となることがあります。千尋は自力でその答えに辿り着き、自分が誰のおかげで、誰の愛ゆえに生きているのかを実感することができました。この神隠し事件は、千尋にとって生きる意味を探しあてるための必要なこころの旅だったのです。それが千の「尋」ねたかった、知りたかった人生の問いだったと考えられます。
 こうして「兄」であるハクへの感謝と愛を知った千尋は、豚の中から愛すべき父親と母親を見分けることができ、帰り道が開けます。怪しかった湯屋一堂、あの湯婆婆さえも千尋の成長を喜ぶクライマックスを迎えます。

希望を取り戻した千尋のその後

 こちら側の世界に帰還した千尋の髪には銭婆婆からもらった髪留めが光っています。ここで物語は終わりますが、この「行って帰ってくる」大冒険を経た千尋は、1)働くこと、2)食べることの喜び、そして3)自分の生きる意味と「愛する/愛される」ことを知って、一回り成長しました。それは、「千」になってしまった千尋が自分の両親からもらった名前「千尋」を取り戻し、「荻野」家の一員として生きていくことを選んだこと、と私には感じられます。帰還後の千尋は、きっとあの父親とあの母親を理解し、支える存在となり、荻野家の希望となって生きていく姿が想像できます。悲しみも背負っていきますが、それゆえに強くなった千尋は、新学期には引き締まった表情で転校先で生き生きと自己紹介をしているはずです。

「荻野千尋です。よろしくお願いします!」

生きている不思議、死んでいく不思議

 エンディングの歌詞の「生きている不思議 死んでいく不思議」というフレーズも兄であるハクが妹である千尋を身を挺して救ったという因果と、命のリレーを感じるとさらに印象的に響きます。
 私は精神科やカウンセリングのオフィスで、千尋のように無気力やうつ、なんらかの症状をもった子どもたちと出会います。その背景には、矛盾した葛藤、抱えきれない怒り、理不尽な思い、そしてトラウマを抱えていることがわかってきます。不登校や拒食症、不安症状などはその結果としてあらわれているのです。このような子どもたちは、千尋と同じく心理的な戦いと成長を必要としている、というのが心理臨床の視点になります。
 みなさんもまた機会があれば、こんな視点で「千と千尋の神隠し」を見てみてくださいね。

瀬田貞二著「幼い子の文学」(中央公論新社,1980)

(本連載はCHAO通信様からの依頼原稿です。許可を得て掲載しています。画像はスタジオジブリの公開画像を使用しています。)


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